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2020年5月上旬からテクノロジー犯罪(エレクトロニックハラスメント)と集団ストーカーの被害を受けています。

#3 暴力に時間を奪われたくない

 
テクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪によるものと思われる自分の被害についてという記述からは少し話がそれますが、そのような状況になってから日常的に考えさせられている事を記してみようと思います。
 
 
例えば心の底から排除したい人間がいたとする。
 
ある人は貧しくて、贅沢をしている人間が気に入らないからそう思っているが、暴力で解決するとなると自分の手を汚すことになってしまうのでその先の膨大な時間を無駄にすることになることが推測される為いささか実行する事に頭を悩ませる。
 
また、ある人は機密情報を含んでいるであろう他人の脳内の神経細胞から全身の血管、内蔵、筋肉の全てを遠隔でリアルタイムでモニタリングしながら思い通りに操作をし続けられることのできる兵器を保有しており、かつその兵器使用にあたってとても都合の良い隠蔽システムを利用することができる立場にいるためいささか実行するための準備のために頭を悩ませている、とする。
 
前者の場合は一般的な事件そのものなのだろうが、
 
後者のように強大な力を持っている人間の場合は、自分たちに歯向かう反対因子などを易々と飲み込む威力を持っているという事を確信している。それもただの思い込みとしてではなくそれらの技術を応用した人類全監視可能なシステムを利用した諜報をした上で。つまり人間界の天井のようなものを知っているのである。しかしこれらの事実だけではこの状況の危険性の全てを見渡すことはできない。仮にそもそもこのような事実を知らない一般市民の中からターゲットを選定した上で、そのターゲットからあらゆる情報を搾取した上で隠蔽のために抹殺しようとした場合、実行者の意図をほぼ100%一方的に実現できてしまうだろう。なぜなら選定されたのは技術的な対抗手段を持たない丸腰同然の一般市民なのだから。そして選定に当たっての判断基準やアルゴリズムの説明というものは一切無視され続ける。
 
ここで言いたいのは、この時実行する者であろうが、実行される者であろうが、実行される出来事が計画的なものであろうが、衝動的なものであろうが、関与する人間が単独であろうが、集団であろうが暴力的な思いは平等に内在しうるということ。心の底から排除したい人間がいるのは何も排除する側だけのものではないだろう。暴力を振るう人間の持つ排除したいという思いと、暴力を振るわれる人間の持つ暴力を振るう人間を排除したいという思いに差はないだろう。
 
実行者が我々は制裁を与えているだの、粛清しているだのと言っても、あくまで勝者の言葉が残り続けているだけに過ぎない。敗者、犠牲者の悲鳴の中にも同じようにそのような事をする人間を排除したいという願いがあったかもしれない。心の底から排除したい人間がいたのは何も勝者だけのものではない。つまり誰しもが抱えうる心情であり、それだけにキリのないものとも言える。そんな事をしている人間は生命というキリのあるものを抱えている。なぜ終わりを急かしあうのか?自分にはよく分かりません。
 
要は実行できるものがただ実行しているだけにしか過ぎないんだという事を言いたい。
 
また多くの場合暴力が存在した時、蹂躙される側の口はする側によって封じられてしまう。死人に口無しとでもいうように。第三者は残った言葉を信じるしかないので、残った言葉が最もらしく聞こえる事だろう。そんな風にして蹂躙された側の悲鳴や叫びは封じられた口の中にしかなくなってしまうのでしょう。
 
 
ところでテクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪に軍需のようなものはあるのでしょうか?もしあれば、多くの企業や国家が関わってくることの根拠の一つにでもなりそうです。もう既に生業の一つになってしまっている人もいるのでしょうか。テクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪がなくなってしまえば失業して生活ができないだなんていう状況の人もいるかもしれません。このような状況はテクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪に重なるかどうかは分かりませんが、戦争の話では当たり前のようです。
無数の犠牲者を生みだしながら莫大なお金を儲ける人間が存在するという事、敗れて多額の負債を背負うことになりそれを返すためにまた別の戦争に乗り出す人間がいるという事も悲しいことではありますがこの世に存在してしまっています。
 
脳・神経科学、精神医学、工学、衛星などにまつわる宇宙工学、情報科学ビッグデータ、AI、心理学、人材確保にまつわる企業、防犯チラシ等を印刷するための印刷会社、捏造病気市場、国家権力を有する組織全般、カルト等々(挙げるとキリがないのですが)といったものの関与は避けられないと考えていることから最早、テクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪として形容される多くの物事はもう既に目に見えないところで始まっていた戦争の産物と言ったほうがいいのではないか?と思うようになりました。それが正しいかどうかということは分かりませんが、目の当たりにする異常な状態を戦争というニュアンスを含めて見た方がテクノロジー犯罪・集団ストーカー犯罪を考えるにあたってピッタリするようには感じます。
 
結局最後にはそうしたことは基本的人権の侵害に行き着くように思います。いわゆる地獄というものと基本的人権が侵害されることには何らかの関係があるのではないでしょうか?
しかしそもそも基本的人権というものは地獄のような状況に置かれながらも続けられてきた人々の努力によって生み出されたものではなかったでしょうか?
侵害されれば地獄、掌握すれば意のままにコントロールできる。こんな考え方のまま何度同じ過ちを繰り返せばいいのでしょうか?暴力が人の時間を奪い続けていて良いのでしょうか?
 
本当はどこにも平和などないならば、無知であることが平和とでもいうならば、平和であることに意味はあるのでしょうか。
 
 
毒を以て毒を制すということも時には意をなすことがあるかもしれませんが、じゃあそれがなぜ毒なのか?ということがまず大事なのではないでしょうか。
 
まず制すべき毒に焦点を当てた場合、その毒にまつわる情報は本当に正しいものだったのか。それを毒とみなしたことは適切な判断だったと言えるのか。じゃあそれはなぜ毒になりえたのか?ということを知ること
また別の視点として利用した毒に焦点を当てた場合、なぜ毒を用いる必要があったのか?そもそも毒を用いる必要はなかったのではないか?そもそも毒を以て制することが本当に適切な判断だったのか?実は制することよりも自分を見せつけたいと言った別の目的が混合してしまっていたのではないか?と思う。制裁を与えた気になるというのはそんなに心地の良いものなのだろうか?制裁を与えられる人間にだって同じように制裁を与えたい人間がいるかもしれないのに。
 
それとも苦肉の策をとった結果にしか過ぎないのかもしれません。
 
個人的な言葉の解釈を含んだ内容ではありますが、暴力に時間を奪われたくないという思いだけで記しました。(考え出すとキリのないことに時間を割く事も勿体無いなと思うようにもなりました)
 
しかしどこかの誰かにはこのブログの記事は何らかの暴力に映ってしまうのでしょうか?もしもそうならば、あなたはどのようにそれを解決いたしますでしょうか?と問いかけてみたいというのが今回の記事のテーマの一つでもあったりします。